コロンビアにおける家の考察 シャワーブース編

南米コロンビア

こちらは全てのことについて動線という考えがないように思える。

時間を節約するため、物事を効率的に進めるためには、どのような動線が良いか、、、考える価値もないのであろう。

時間は節約するものではなく、使うものなのだから。。。

ただ、唯一動線がしっかり確保されていると思うのが、空港。目的の自分の乗る飛行機の待つゲートに行くためには必ず免税店の中を通り、最後の関門はレジという、何も購入しなければ通りにくい関所を通り抜けねばたどり着けないという仕組み。

この点は非常に考えられていると思うので、一応動線という考えはあるのかもしれない。

家に立ち戻って、動線というものを考えてみる、非常に些細なことだが、特にこの動線について考えさせられるのは、シャワー室のつくりである。

シャワー室はおしゃれに、ガラスで囲まれており、ドアがついており、同じ場所にあるトイレはぬれない工夫がしっかりとされている。

ここだけ見れば一見全く問題ないように思えるが、なにせ動線、、、というか水線が考えられていないつくり。

シャワーを浴びようとすれば一瞬でこの問題にぶち当たる。

特にボゴタの朝は寒く、また、温水の蛇口をひねってもお湯が出てくるまでに数分かかることを前提としながらこの場面を想像してほしい。

トイレの便器があるところからシャワーのブースにはいるガラスの戸が外側に開くのではなく、内側に開くのだ。シャワーブースのガラスのドアもおしゃれに重厚に必要以上に大きく作ってある。

この向きと大きさが問題なのだ。

まず、シャワーブースのドアをあけると自然とシャワーの蛇口までの道がふさがれる、よって、体を全部シャワーブースに入れてドアを閉めることで、初めて蛇口をひねることができるのである。

また、このドアはとても大きく、開閉には大きな回転半径が必要であり、ドアを閉めるためには、体を完全にシャワーブースの中に入れ、さらに普通に閉められないので、体を壁に寄せなければならない、特に私などは、少し体が大きいため体を壁に押し付けなければドアをしめることができない。

人間が主役かドアが主役かわからないシャワーブースにおいて、めでたくドアのために道を譲り、壁に張り付き、ドアを閉めたところで、次はシャワーの蛇口をひねることとなる。

シャワーはおしゃれな天井から降り注ぐタイプ。

おそらく日本であれば天井から降り注ぐものと普通の手でもって動かせるシャワーでそれぞれ切り替えができるようになっていて、おそらく後者である程度温度調整し、心地よい温度にしてから、天井から降り注ぐシャワーに切り替え、極楽気分に浸ることになると思うのだが、ボゴタにおいては天井から降り注ぐシャワーの一本勝負。

よって、真下に陣取り、シャワーの蛇口をひねることとなる。

ここで、最初に書いた、ボゴタの朝は寒い、シャワーからお湯が出てくるまで数分かかる、このキーワードを念頭に置けば、このシャワーの恐ろしさが想像できるであろう。

蛇口をひねる、ドアの回転半径は長く、体を壁につけなければ、ドアの開閉はできない、つまり逃げ場はない、程範囲の広い天井シャワーは蛇口をひねった瞬間から天井から容赦のない冷水を垂れ流す、この洗礼から逃げることは不可能である。

私の場合は、まず、服を脱ぎ、シャワーブースに入る、体をなるべく天井シャワーの射程角度の資格になるガラスに密着させ、密着した部分のガラスの冷たさは、瞑想により忘れると決める、覚悟を決めて、蛇口をひねる、冷水の飛沫が、ガラスに密着していない体に降りかかる、これは、不規則に接触をしてくるため、瞑想により忘却できるほど、私は瞑想できるわけではないので、つらい、これは何度経験しても、心臓が縮み上がるほどの衝撃である、その後は、冷水の飛沫を浴びながら、ぬれたままでの数分の放置プレイ、数分たち、やっとのことで、冷水が温水に代わり、心の平安を得られるのである。。

朝からなんでこれほどの苦行をこなさなければならないのか、ボゴタに普通にすんでいるだけなのに、人生の苦悩を断ち切るために、すすんで山寺の滝つぼでの修行を希望したのではないのだがと、毎朝ガラスに囲まれたシャワーブースで一人思いをはせる、これがボゴタでの朝の日課、修行シャワーである。。。

いずれにせよ、ドアが、外向きについていれば全ては、解決する問題、ほんの少しの工夫で生活が快適になるのに、少しの工夫をしないことで、これほどの苦行、頭は使おうと心底誓う瞬間である。

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